INTERVIEW_002 SNAZZ β 関西クリエイティブを探るウェブマガジン

自分にしかできないもの。日本人にしかできないもの。現在進行形で刺激を受けたものをカタチにする。
2017年11月に関西を拠点とするクリエイター特集としてインタビューして頂きました。

日本製のレザーを使い、既視感のないバッグを生み出す「コーネリアン タウラス バイ ダイスケイワナガ」。世界中の名立たるセレクトショップやデパートメントで扱われるこのブランドのデザイナーを務めるのが、神戸出身の岩永大介さん。氏のモノづくりにおける原点、そしてコアに迫った。

SNAZZβ記事転載 全文はこちらからhttp://snazz-beta.com/2017/11/22/daisuke_iwanaga_1

自分らしく、日本の心を忘れずに
世界で勝負をするということ。

僕のクリエイションのベースには、“自分にしかできないもの”という想いがあります。ブランドを始める前までは、一度真似をして作ってみてそれを僕なりにアレンジする。そんなことを意識していました。そこから様々な経験をし、ブランドを立ち上げる際にこの業界で生き残るためには、自分にしかできないものを作るべきだという考えに辿り着きました。そして世界で勝負するという視点を持った時、“日本人にしかできないもの”という考え方も大切にしようと思ったんです。このふたつが、今でも僕の考え方の根幹ですかね。
もうひとつの軸として、“現在進行形で自分が刺激を受けたものをカタチにする”というのがあって、毎シーズンのコレクションテーマに必ず組み込んでいます。スタート当初から全くテイストの違うものからアイデアソースを取るようになりました。もちろん、バッグの歴史や流れ、トレンドは理解したうえでの話ですが。

これら三本柱を、何らかのカタチで取り入れながらモノづくりをしています。多くのパーツからでき上がるバッグのデザインを生業としていることもあり、自分自身のことを1から10までオリジナルで組み上げるアーティストとは思っていなくて。ただ自分のやり方は、おそらくカバン業界では特殊な作り方、考え方をしていて異質なところにいると思っています。

岩永大輔 daisuke iwanaga 1

バッグメーカーへの就職を機に
クリエイションが開花する。

幼少の頃から大学時代までサッカー一筋でしたので、将来はプロになってそれでご飯を食べていきたいと漠然と考えていました。でもあらためて自問自答したら、誰にも負けないというほど自信が持てなくて違う道を進むことに決めたんです。何となく頭に浮かんだのは、小さい時分からプラモデルやラジコンを組み立てたり、高校生の頃にはサッカーに明け暮れながらもアクセサリー作ったり、モノ作りが好きだということ。デザイナーやクリエイターになりたいというよりかは、自分が思い描いたものをカタチにするということに興味があったんです。すると京都のカバンを作る会社で社員募集があり、入社することができました。カバンのサンプル作りと生産を社内でやっているので、入社してから企画室に入るまでの2ヶ月間は、ショルダーなどのパーツを会社の生産チームのみんなと一緒に縫っていました。すぐミシンを買いに行き、家に帰って趣味レベルのモノを作り始めたのが今の原点ですね。ヘタクソでもいいから、“こんなモノを作りたい”と思ったものをとにかくカタチにすることが嬉しくて。ほんと子どもみたいな感じで熱中し、これでご飯を食べていきたいと考えるようになりましたね。

岩永大輔 daisuke iwanaga 2

会社を辞めようと思う一方、自信は全くありませんでした。技術とモノづくりの基本的な構造みたいなことは理解できたけれど、もっといいモノを作るために自分に何が足りていないかと考えた時に、圧倒的な技術とクオリティに対する考え方、それにまだ見たことのないような広い視点。この3つだと感じていました。

モノづくりだけでなく、
“モノを売る”という視点を持つ。

次に京都の北山にある店に、バイトとして働くことになります。そこは「マルタン マルジェラ」や「ニールバレット」を扱いながら、新しいムーブメントを起こそうとしているセレクトショップでした。当時、「リーバイス レッド」や「オニツカタイガー」とも面白い仕事をし、ストリートファッションとハイブランドのミックススタイルを提案していました。そこに勤めながら、家に帰って自分の分や友人からオーダーしてもらったカバンの創作活動をするという感じでしたね。
自分の作っているものと会社で取り扱っているものを比較すると、やっぱり自分の作ってるカバンはヘボいなあと痛感し、もっと世界のファッションシーンを見たいと思ったんです。ちょうどその会社は海外にコネクションがあったので、上司でありバイヤーの方に実費で同行させてくださいと頼み込んで、バイトの身分ながらヨーロッパに連れて行かせてもらったんです。その上司はとてもエネルギッシュで、厳しくいろいろと教えてくれました。そんななかでバイイングの勉強も本気でしたいという思いから、正社員に進むことに決めました。一番学んだのは、やっぱり広い視点の中から、僕なりのフィルターをかけて何かをチョイスすること。今の仕事においても、当時の経験が随分と活かされていると思いますね。

  • 岩永大輔 daisuke iwanaga 3
  • 岩永大輔 daisuke iwanaga 4

予期せぬ出会いが
海外進出のきっかけに。

バイイングで行ったパリのマレを歩いてる時に、自分で作ったオーストリッチのショルダーバッグをいきなり後ろから引っ張られたんです。見たら大きな外国人に引っ張られていて……。「お前の持ってるこのバッグは何だ? 興味があるんだけど」ということでした。聞けば、有名なファッションジャーナリストで「それ何だ? どこで売ってるんだ?」と。自分で作っていて、個人オーダーでしかやってないと伝えところ、すぐにオーダーしてくれたんです。普通に考えたら、本当にお金を払ってもらえるのか不安なはずですが、その時は気持ちが高ぶっていたこともあったのか大丈夫だろうと。それで次の出張にカバンを持っていったら、続けて2、3個オーストリッチのカバンや他のカバンもオーダーしてくれました。そんなことがあったタイミングですね、会社に退職と独立の話をしたのは。既に仕入れている商品は責任を持って売るので半年後に辞めたいと社長に相談したら、わかった、ただそれまでに2回は海外出張に行ってくれと言われました。

  • 岩永大輔 daisuke iwanaga 5
  • 岩永大輔 daisuke iwanaga 6

その日から、帰宅すると次の出張に向けたサンプル作りに没頭。夜な夜なミシンを踏んでたら、例のジャーナリストから国際電話がかかってきてパリの[レクレルール]のオーナーと話をしている時に、カバンのことを聞かれたと。そこでダイスケの話をしたら、パリにいつ来るんだと言われたというんです。続けざまにサンプルを持って来られるかと。[レクレルール]や[コレット]であったり、ロンドンの[ブラウンズ]であったり、バイヤーとして世界のファッションコンシャスな人たちからその国の一番いいと言われているお店はチェックしていたので、やっぱり純粋に嬉しかったですね。こんなチャンスはそうないし、ここで勝負かけなアカンなと。そして、なんとかサンプルを8個完成させ、[レクレルール]から20点ほどのオーダーをもらえました。その話を海外のファッション関係の仲間にしたんです。そうしたら今後どういった卸しをしたいのか聞かれ、とにかくその国でNo.1かNo.2のショップと仕事をしたいと思い切って伝えました。海外には、日本とは違ってメゾンなど以外は大きな企業が多くは存在しませんし、取り扱い店舗のバッティングの問題もあるとわかっていたので。いろんな人が、じゃあこのバイヤーはどうだ、あのお店はどうかといろいろ提案してもらいました。そのなかで慎重に選択し、バイヤーに会う機会を作ってもらいました。

カバン作りを通して
日本の技術や文化を世界に伝える。

その当時、話があったのが香港の[ジョイス]。日本でいうところの[伊勢丹]のような百貨店です。そのパリのオフィスにサンプルを持って行きました。あとはイタリアの[ラザーリ]というお店。たまたま縁があって[レクレルール]に拾ってもらって、その後も[伊勢丹]での仕事が決まったり、韓国の[新世界]グループの[ブーンザショップ]での取り扱いが決まったり、ブランドをスタートするにあたってすごく恵まれてるなあと。今でも思うのは、やはりその時に拾ってくれた方々、わけのわからない日本人の私にちょっとした可能性を感じて買ってくれた方々には、恥をかかせられないということ。日本の技術や文化的なものを、商品を通じて日本や海外の方に伝えていくのが自分の役割だと考えています。そういう想いで始めたカバン作りなので、今もそれは守り続けていますね。その一方で、提案して人に伝えるためには絶対的なクリエイションとして、自分にしかない個性を出さないといけないのも理解しています。そこも見失わないようにしていきたいと思っています。

岩永大輔 daisuke iwanaga 7

生まれ育った街や家族など、
ルーツを大切にする。

会社を辞めて、ブランドを立ち上げるタイミングで地元の神戸に戻ってきました。それは、すでに決めていたことで、先ほど話をした三本柱のすべての要素を満たすことでもありました。最初は神戸駅近くの造船所街の一角にアトリエを借りました。
「自分にしかできないこと」、「日本人にしかできないこと」、「自分が進行形で常に刺激を受けたものをカタチにする」。この3つのものを組み合わせるとなった時に、コレクションを作るにあたって海外の革を仕入れるという事は一切考えていませんでした。海外での仕事も長く、100%オリジナルではなかったとしても、自分たちにしかできないものと考えた時に、素材で勝負するべきだと。日本の革の生産の70から80%は兵庫県の姫路市とたつの市です。その生産背景に近いところで、モノづくりやクリエーションを始めないといけないと考えましたね。たまたま生まれが神戸だったこともあります。自分にしかできないということを考えた時、まず自分が小さかった頃のことを考えました。それは、生まれてきた背景です。クリエイティブをするにあたって、自分がどういう人間なのかと考えた時、自分の生まれたところで、自分が何かを作るということが自然なのではないかと。

岩永大輔 daisuke iwanaga 8

最初のアトリエを造船所の近くにしたのもクリエイションとして、カバンに使っている金具は船の金具をメインで使用しているので、生産背景に近い場所を選びました。小さい頃から潜水士である父の仕事で使っていたヘルメットやタンクを見て育っているということで、船具をベースに金具を作るということも自分のバックボーンのひとつ。それが自分にとってオリジナルのソースであると捉えました。実際に昔からある造船所を見させてもらい、ガラクタのような中から何かないか探しました。そこで見つけたもので何か作れないかなとか、アトリエの什器に使えそうだなとか、想像を膨らませていたのを今でも鮮明に憶えていますね。